那覇市松山にあった県立第二高等女学校の生徒たちは沖縄戦で看護要員として動員されました。「白梅学徒隊」です。
学徒たちは旧東風平町富盛にあった山第一野戦病院で負傷兵の看護にあたりました。
その後、アメリカ軍が東風平付近まで迫ったため野戦病院は解散、一部の学徒たちは富盛から撤退し糸満市真栄里の壕に移動しました。
そこでアメリカ軍の攻撃に遭い多くの学徒が命を落としました。
今、この場所には白梅の塔が建てられており亡くなった22人の学徒が祀られています。
その白梅学徒隊の足跡をたどりながら戦争体験を伝える活動を県内の高校生が10年前から続けています。
戦後69年、戦争体験の継承が課題となる中、過去の悲劇と元学徒たちの想いが受け継がれようとしています。
学徒たちは旧東風平町富盛にあった山第一野戦病院で負傷兵の看護にあたりました。
その後、アメリカ軍が東風平付近まで迫ったため野戦病院は解散、一部の学徒たちは富盛から撤退し糸満市真栄里の壕に移動しました。
そこでアメリカ軍の攻撃に遭い多くの学徒が命を落としました。
今、この場所には白梅の塔が建てられており亡くなった22人の学徒が祀られています。
その白梅学徒隊の足跡をたどりながら戦争体験を伝える活動を県内の高校生が10年前から続けています。
戦後69年、戦争体験の継承が課題となる中、過去の悲劇と元学徒たちの想いが受け継がれようとしています。